「革生学」宣言

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はじめに―「肉体」と「欲望」の拡張

近代に起こった科学技術と資本主義の発展は、人類史における巨大な革命であった。

科学技術の発展は、人間が生身の肉体ではなし得なかったことを次々と可能にした。自動車を運転すれば、足で歩くより何倍も速く遠くに行くことができるし、飛行機に乗れば、翼を持たない身で何時間も空を飛行し、地球の裏側に降り立つことが出来る。そしてインターネットの登場は、名も知らない遠くの人々と瞬時に繋がり、コミュニケーションを取ることを可能にした。科学技術発展の歴史は、いわば人間の肉体拡張の歴史である。

また資本主義の発展によって、人間がそれまで満たすことが出来なかった欲望を満たし、同時に新たな欲望を生み出していく道が開かれた。資本主義社会は平たくいえば「カネがあればなんでもできる」社会である。カネが新しいモノやコトを生み、それがまたカネを生む。資本主義発展の歴史は、いわば人間の欲望拡張の歴史である。

科学技術と資本主義の発展が結びつき、人間の肉体と欲望を拡張し、文明を爆発的に膨張させていったこと。これこそ近代という時代の本質であった。

「生」の荒廃、断片化

しかし、科学技術と資本主義の発展には負の側面もあった。それは人間の「生」の荒廃や断片化という形で現れた。

人間社会の福祉の向上のために生み出されたはずの科学技術は、時に人間自身に牙をむいた。第一次世界大戦では戦車・機関銃・毒ガスが生身の兵士を踏みつぶし、肉塊にし、ブラインドにした。第二次世界大戦で炸裂した原子爆弾は、10万を超える無辜の市民を焼き尽くした。人間が生み出した科学技術に、人間の生は踏みにじられた。

また資本主義の発達が生んだ社会は、「カネがあれば何でもできる」社会である反面、「カネがなければ何もできない」社会でもあった。貨幣は、本来は人間が欲望を実現するための手段に過ぎなかったが、資本主義のもとでは貨幣を増幅させること自体が目的に転化し、カネを生まないものに一切の価値を認めない価値観を生んだ。資本主義のもとで人間と貨幣の力関係は逆転し、人間の精神は貨幣の奴隷になった。人間の生は賃金労働者の生へと切り詰められた。人間は人間である前に賃金労働者となった。

人間の肉体と欲望の拡張は、生の犠牲においてなされたのである。

新しい人間の学―「革生学」宣言

しかし人間はその全歴史において、ただひたすら肉体や欲望の拡張だけを追い求め、人間の生のあり方をめぐる探究をないがしろにしてきたわけではない。人間はときに人間自身を思考の対象とし、「人間とは何か、人間はどう生きるべきか」を問い続けてきた。その思考の成果が哲学や歴史、心理学、社会学等の人文社会諸科学である。

しかし従来の人文社会諸科学は、いずれも私を満足させなかった。なぜなら、それらの学問はいずれも、多様な側面をもつ人間存在の一局面にのみ焦点を当てており、人間存在をひとつの全体としてまるごと捉えるという視点に欠けていたからである。それゆえに、そこに映る人間の姿が、生身の人間や社会との関わりを欠いた空虚なものに見えた。そこには、人間や社会の本質を根本的に問い直そうとする骨太の思考も、現実の人間や社会を理想に近づけていこうとする主体性や気概も見いだされなかった。

ここに至って私は、自らの手で新たな人間の学問を生み出す必要を切に感じた。それは、従来の人文社会諸科学がなし得なかった、人間の生の全体的把握をなしうる学であると同時に、人間が断片的生を超克し、包括的生を生きる理想社会を構想し実現するための、革命の学でなくてはならない。

私はこの新しい学を仮に、「革生学」(読み:かくせいがく [独]das Studium der Lebens Revolution)と名付ける。

革生学の体系は大きく分けて理論編と実践編から成っている。

理論編では、人間の「包括的生」( [独] Umfassend Leben)を定義し、革生学の認識論的基盤を確立する。そして、革生学的視点から人類の歴史を振り返り、人類が科学技術と資本主義によって肉体と欲望を拡張してきた反面で、精神を荒廃させ、生の全体性を解体、断片化させていったことを歴史哲学的に明らかにする。

実践編では、現代が、人々から包括的生が消滅しようとしている危機的な時代であるという認識に基づき、包括的生を取り戻すために我々が何をなすべきかを社会哲学的に考察する。そして、包括的生を復興するには、社会のあらゆる領域を根底から変革する必要があることを主張し、ここに革生学が文字通り革命の学であることを示す。

人間の「生」に関する考察は、哲学史においていわゆる「生の哲学」(Lebensphilosophie)として展開されてきた。ドイツのヴィルヘルム・ディルタイ、フリードリヒ・ニーチェ、ゲオルク・ジンメル、フランスのアンリ・ベルクソンらの哲学がそれである。革生学は生の哲学の系譜を引き継ぐ思想であるが、理想社会実現という実践的課題と密接に結びついた思想である点に独自性がある。

また革生学は、徒に科学技術や資本主義を否定し、古き良き時代に還ろうとする復古主義的な思想ではない。むしろ革生学は、科学技術や資本主義を揚棄(アウフヘーベン)する学であり、科学技術や資本主義の発展によって失われた包括的生を高次元で回復することを目的とする。

おわりに―終末か、新生か

今日、人間の精神は危機に直面している。

日本国内では、連日のように公共空間における無差別殺傷事件が発生している。2022年7月8日には、安倍晋三元首相が公衆の面前で暗殺され、日本の民主主義や社会的連帯の機能不全が露呈した。

海外情勢に目を転ずれば、ロシアによるウクライナ侵攻やミャンマーにおける軍事クーデター、シリア内戦、アフガニスタンにおけるタリバン復権、香港における民主主義の圧殺等が深刻な人道危機を生じさせている。

にもかかわらず、このような人間精神の危機を前に、「善良な市民」がやってきたことは、自らの精神で思考し、問題解決のために議論し、連帯し、行動することではなかった。彼らは暇さえあればGoogleで芸能人のゴシップを検索し、Apple Musicで流行の音楽を耳に流し込み、メタバースの世界に現実逃避し、Amazon prime videoでくだらない番組を視聴し、Twitterで見知らぬ誰かをバッシングし、You tubeでかわいいネコの動画を漁り、Tik Tokで踊り狂い、Instagramにスイーツの写真をアップして「いいね」を稼ぐことに夢中になっている。そこに見られるのは娯楽を浴びるように消費し、自らもまた消費される記号として振る舞う断片化した生の群れである。科学技術と資本主義の結合が生んだ巨大なサブカルチャーは、人間を快楽漬けにし、精神を回復不能なほどに蝕んでいる。

このまま人類が肉体と欲望の拡張のみを追求し、精神をないがしろにし続ければ、我々が人類7万年の最後の世代となるだろう。

ここにおいて私は、情況のいよいよ深刻なるを思い、革生学の理論体系の完成と、革生学革命による理想社会の実現という困難な事業を、人類の行く末を憂えるひとりの現代人として、この際、断然実行することにした。革生学革命によって人間の生の全体性を回復させ、理想社会が到来するとき、人間は断片的生を超克し、精神は一段高い次元へと飛躍するであろう。人間はより高次の存在となり、新しい人間の歴史が始まるであろう。

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